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葛飾北斎大展覧会——ベルリンおよびドイツと北斎を結ぶ深い縁


8月25日から日独友好150年周年記念の目玉イベントとしてベルリンのマルティン・グロピウス美術館でヨーロッパ最大の「葛飾北斎」展が開かれている。北斎は富士山を様々な地点から描いた浮世絵シリーズ「富岳36景」などで世界的に知られている。

北斎は1760年に江戸の墨田で生まれ、1849年に逝去するが、当時としては稀な89歳という長寿を全うし、70年以上に亘る創作の結果、その作品は3万点を越える。さらに様々な奇行でも有名だ。例えば、画号は北斎以外に創作時代によって春朗、画狂老人、卍など30以上も名乗った。また引っ越し魔で生涯に90回以上も居を移したそうだ。芸術上の評価は世界的に確立されていて、1999年の米国雑誌「ライフ」の企画「この1000年の間に世界で最も功績を残した100人」のなかで北斎は日本人として唯一選ばれ、ピカソよりも高く評価され、17位に位置しているほどだ。今回の展覧会の特徴を簡単に紹介しよう。

「北斎漫画」

北斎と言えば、浮世絵を思い浮かべるが、作品の幅は広く、肉筆画(主に掛け軸)、スケッチ、挿絵などがある。さらに15巻に及ぶ「北斎漫画」が数えられる。この漫画は現代の漫画とは違い、 気の向くままに漫然と描いたという意味で「漫画」と名付けられた。1812年頃から全国に散らばっている弟子および彼の作品愛好家を対象にした絵の手本として出版された。人物、風俗、動植物、妖怪変化と4300の対象に北斎の飽くなき好奇心が反映されたスケッチ図による百科事典とも言える。 この北斎漫画が1851年にドイツ人医師フランツ・フォン・シーボルト(1796−1866)によってヨーロッパに持ち出され、彼の日本についての紹介本『Nippon』のなかで挿絵(エッチングのコピー)として使われることによって、外国で初めて紹介された。19世紀の半ば過ぎから始まった日本絵画のヨーロッパとの深い関係はこの北斎漫画によって始まった。さらにフランスのエッチング画家ブラックモンが1856年のある日、日本からの磁器を買おうとした時、包み紙として詰められていた北斎漫画を見つけ、あまりの素晴らしさに目を奪われた話は有名である。彼は早速その磁器を買いとった―—いうまでもなく漫画の包み紙と一緒に。ブラックモンはさっそく画家仲間にも紹介した結果、いわゆるジャポニズム(フランスを中心とした日本心酔の波)が生まれた。この日本心酔の熱はさらにモネ、ドガ、ゴッホ、ゴーギャンなどに広がり、ヨーロッパの印象派に大きな影響を与えたのは芸術史で有名である。これにはもう一人のドイツ人画商、ジーグフリート・ビング(1838−1905)が貢献している。彼は浮世絵の素晴らしさに魅せられ,自ら日本にまで赴き、数千点という作品を買い求めた。そしてパリで「アール・ヌーヴォー(新しい芸術)」という店を開き、画商として活躍した。フランスの有名な芸術の流れ「アール・ヌーヴォー」は彼の店の名前に由来している。この展覧会ではシーボルトの本はもちろんのこと、貴重な初版本14巻が展示されている。

顔料「ベロ藍」と浮世絵

北斎は浮世絵の絵師として有名で、今さら述べる必要はないであろう。もちろん今回の展覧会も浮世絵が中心になっている。若い時代から「春朗」、「宗理」、「戴斗」、「画狂老人」、「 画狂老人・卍」と時代を区分する画号によって部屋別に展示された作品を見ているうちに北斎の芸術上の足跡が辿れるようになっている。黒一色、さらに色が増えて,ついには錦絵といわれる日本独特の多色摺りへと発展して行く技術史上の変遷も辿れる。これには下絵を描く絵師に加え、彫師、摺師、版元などとの高度な共同作業(エッチングは一人で完成する)が前提になるが、さらに和紙の品質向上も大きく貢献している。20回にも及ぶ色摺りに耐えられる強い和紙が18世紀半ばに製造されるようになったのである。浮世絵に描かれた江戸の観光名所や役者似顔などが参勤交代で国へ帰る侍、見物客の土産物として喜ばれ、ますます大量生産が促された。桜の木を版木として使い、上質の和紙を使うとまずは200枚ほど摺れる。

1829年頃から北斎は最も有名な「富岳36景」を発表する。このシリーズを見ると 多くの絵の中でそれまでにほとんど見られなかった鮮やかなブルー(藍色)がいやが上にも目につく。それも180年を経たのについ最近摺られたかのように見える鮮やかさなのだ。この顔料が当時の日本では「ベロ藍(べろあい)」とよばれ、 現在ではプルシャンブルーと呼ばれる化学顔料 Berlin Blueなのだ。1706年にベルリンの顔料屋ディースバッハが製造に成功したと言われる。それまでの青色の顔料は植物から精製されたもので、 時が経つと色が褪せてしまったのだが、このベロ藍はまったく最初の鮮やかさを失わない。日本には1760年頃にオランダ人によってもたらされ、平賀源内がその価値を認め、秋田蘭画の佐竹藩主に紹介し、使われたのが最初だといわれている。少ししか輸入されず非常に貴重だったので大量生産される版画ではまず使われなかった。その後顔料として引き合いが多くなり、1820年位から中国人も盛んに長崎に持ち込むようになると価格も大幅に下がり、浮世絵にも使われ始める。探究心が盛んで挑戦精神に富んだ北斎も「富岳36景」でベロ藍を使い、また蘭画から学んだ遠近法を駆使し芸術上の新境地を拓いた。「ベロ藍」によって空の透き通るようなブルー、海 、富士山のブルーが画面から浮かび上がってくる。構図の天才・北斎によって画期的ともいえる空間、世界が誕生したわけであるが、色彩面でBerlin Blueが絶対的な効果を上げたことは特筆に値する。コロンビア大学のヘンリー・スミス・ジュニア教授はこれを北斎による「ブルー(藍色)革命」と名付けている(1を参照)。

この展覧会ではメーンの会場にブルーの作品群、「富岳36景」から「千絵の海」、「諸国滝廻り」、「諸国名橋奇覧」らが一堂に集められていて、圧倒される。スミス教授が主張しているように、この広大な空間を彩っているブルーは世界に向かって開かれ、10年後に訪れる日本の開国を象徴しているかのようだ。 日独友好150年を記念する芸術イベントとうたわれているが、Berlin Blueと北斎に関しては180年来の関係とも言える。北斎がBerlin Blueを見いださなかったら、浮世絵が世界であれほどの評価を受けたかは大きな疑問だ。さらに北斎とならんで、ジャポニスム誕生に大きく貢献した歌川広重(1797−1858)の見事なヒロシゲ・ブルーも Berlin Blueなのだ。ちなみに英国の美術史家ストレンジ氏が1917年にヒロシゲ・ブルーはインディゴ・ブルーだと主張した説が相変わらずまかり通っているが、最近の化学的な顔料分析研究の結果間違いであることが判明している(注1参照)。


北斎と肉筆画

北斎のメーン作品群とも言える数々の浮世絵シリーズは彼が70歳から74歳位の間に描かれた。その後は掛け軸を中心とした肉筆画に集中する。謎ともいえるが、数年ごとにスタイルも主題も次々と変えていき、新しい世界に挑んでいった北斎にすれば、浮世絵画工としての成功をあっさりと捨てたのも自然な生き様の一環だったのだろう。ただ、当時絵師と画工という名称があり、浮世絵師は絵師といわれたが、本来は画工であるのに対して 大和絵などの絵師は芸術家として尊敬されたという時代背景も無視できないのかもしれない。絵師は侍や貴族が尊重する大和絵を描き、画工は町人、庶民が好んだ版画の下絵を描いた。それと肉筆画は画家一人で完結するが、画工は作者として名前は残ってもチームの一員である。 下種の勘繰りかもしれないが、これらの側面も多少影響したのかもしれない。


日本でもこれだけの質と量の北斎は簡単には見られないだろう。これらを全て見るには、東京墨田区から島根県津和野の葛飾北斎美術館まで訪れなければならない。ベルリンのマルティン・グロピウス美術館において430点の作品が10月25日まで2か月に亘って展示されている。

1) "Hokusai and the Blue Revolution" by Henry Smith II

http://www.columbia.edu/~hds2/pdf/2005_Hokusai_and_the_Blue_Revolution.pdf


福沢啓臣                            2011年9月5日